ボランティア

全国でゲリラ豪雨に悩まされた夏ももうすぐ終わりですね。

今日は少し私が携わってきた(現在進行形の)ボランティアのお話を、書かせていただきます。

社会人になって間もないころ、先代社長の勧めがあって、各界のリーダー、リーダー候補生が集い研鑽を積む団体に26歳から所属しました。

ボランティアもその一つです。この15年の中で、国内では、1995年発災した阪神淡路大震災の支援活動が大変心に残っています。発災直後、現地で支援物資の搬送や仕分けといった活動をさせて頂きました。社業の建築で、協力要請があった際、社員さん、職方さんと共に兵庫県に約2年にわたり人材を派遣させていただきました。

一方、何度か海外ボランティアに参加する機会もあり、アジアの数国に赴く機会がありました。

中でも、フィリピン、マニラ郊外にある、トンド地区に「スモーキー・マウンテン」と呼ばれるスラムがあります。コーディネーターなしでは、とても立ち入ることは危険な場所ですが、この地域の子どもの支援をするボランティア活動を体験する中で、心を打たれ、海外でのボランティアに携わるようになりました。

「少し前の話ですが・・・」

フィリピンに関しては、2014年に現地のNGOから依頼を受け、就学前児童の教育・栄養支援を行っている機関(無償で通える民間幼稚園)の移転プロジェクトの日本での支援団体のとりまとめ役を任されました。資金調達から、図面制作、建設業務委託の調印式のセッティング、現地との連絡を取り、現地で工事の進捗状況調査、検査指示等を経て、を2015年11月に収容人数300名の「サンディワアン・デイケアセンター」をお引渡式のコーディネートまで、携わらせていただきました。

 

2005年、友人が、国際支援のNPO法人を立ち上げるのに、経験者に参画して欲しいと要請されました。そのNPOは、設立当初「アフガン復興支援機構」という名前で、戦争終結後のアフガニスタンに病院用のベッドを送ることを主に活動していました。

今では、民間人は、入国することもできない状態ですが、当初は、当NPOからベッドと共に現地に、ニーズの調査から納品の確認作業までカブール、バーミヤンに数人出向くといった事からスタートしました。

私は、2005年に発災したパキスタン北部地震の、震源地に近い激震被災地の病院復興のためにベッドを送るための、現地調査に携わらせていただき、3つの病院にベッドを送らせて頂きました。

その後、2010年にアフガニスタンNGOの依頼を受けて、戦災孤児の女子教育支援、戦災未亡人の就労支援のための施設を建築するために、施設に設置する、机、椅子、黒板、ミシンといった備品を日本の学校の教科書がB版からA版に変わるタイミングで入れ替えられることになった物を送るというプロジェクトを実施しました。

時が流れ、NPO法人も「チーム三河リカバリー」と改称し、活動エリア現在は、ミャンマーに日本で使わなくなる消防自動車を寄贈する活動にシフトしています。

 

「現在」

あれから7年が過ぎ、支援させていただいたアフガニスタンの施設「ウミード」(日本語で希望)の机と椅子が、老朽化してきたので、補充をしてほしいと運営NGOから依頼がありました。

これを受け、安城市の教育委員会、小中学校からご協力をいただき写真の様に調達をし始めています。

先日、安城北中学校、安城桜町小学校、安城南小学校、桜井小学校、安城作野小学校から引き取らせていただき、JAあいち中央様のご厚意で、倉庫をお借りして、保管させていただいています。

日曜日でしたが、学校の先生に鍵を開けていただき、運搬しました。


搬送するための資金を調達し始めています。アフガニスタンで待つ子どもたちに早く届けることができればと願っています。

社会人として、会社の事業で、お客様に喜んでいただける仕事をさせて頂くのは、大前提です。

人として、これまでの経験を生かして日本国内だけでなく、外国であっても何かお役に立てる事ができる、というのも生きがいを感じます。

発展途上国や政情不安な状態の国へ出かけることもありますので家族は、私が行った先で、事故やテロに巻き込まれないか、心配してくれます。ボランティアは、会社の仕事や地域社会の関わりといった責任を果たした上の活動ですので、その際には、充分な調査の上協働する現地NGOに安全を確保して頂きながら出来る事をさせて頂いています。

「ちょっと素敵な日本人」になりたい。これが私のキーワードです。

2017年08月30日